魁塚(相楽塚)

最終更新日: 2011年3月28日

  • 所在地 魁町
  • 所有者 下諏訪町
  • 指定 昭和49年6月24日 町・史跡 

 この魁塚は(さきがけづか)、相楽総三(さがらそうぞう)(本名 小島将(まさ)満(みち)1839~1868)始め8人の赤報隊(相楽率いる一番隊の呼称)幹部が冤罪(えんざい)により、慶応4年(1868)3月3日斬首(ざんしゅ)の刑に処せられた地に、かつての同志であった人達や有志により明治3年 (1870)建立された塚である。

 官軍先鋒(せんぽう)維新の魁としてのり込んできた人達が、一転してにせ官軍とされて刑に処せられたことは、地元の人々の大変な驚きであった。しかし、隊長の相楽は、高島藩士で勤王の先駆として活躍していた石城東山(いしがきとうざん)と同志であり、相楽が再三諏訪を訪れ、同志を糾合していた。そのため、相楽の名は早くから諏訪人に知られていて、惜しまれていたこともあって、そのときの刑場を魁塚として慰霊を行い続けている。維新の魁をした人達の塚というのである。

 相楽の孫木村亀太郎は祖父相楽の冤罪を晴らすことに生涯をかけ運動し、ついに昭和3年(1928)に正五位相楽総三・従五位渋谷総司の贈位があって、晴れて志士として認められた。

 この塚には刑死した相楽総三・渋谷総司・竹貫三郎・小松三郎・西村謹吾・大木四郎・高山健彦・金田源一郎のほかに同志として所を異にして命を落とした金原忠蔵・熊谷和吉・丸尾清・北村与六郎と石城東山も併せてまつってあり、年々4月3日に遺族と地元の相楽会が祭事を続けている。塚はかっての中山道の道沿いにあって、106平方メートルの敷地である。

 なお宮内大臣(くないだいじん)一木喜徳郎題額による魁塚碑昭和5年(1930)4月に建設されていた。この碑文には「昭和3年の秋の大礼に相楽総三・渋谷総司の贈位を褒賞し、討幕の魁であった数々の事跡を細記し、信州下諏訪(しものすわ)において、相楽30歳、渋谷22歳にて同志8 人と共に、斬に処せられたこと。かっての同志落合直亮(なおたか)たちの運動により、明治3年(1870)3月に官の許しを得て刑死した8人、その他5人の名を刻み碑を建てたことなど、贈位により冤罪が晴れたこと」を言祝(ことほ)いでいる。
 

魁塚

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