相楽総三関係資料

最終更新日: 2011年3月28日

  • 所在地 西高木 諏訪湖博物館・赤彦記念館
  • 所有者 下諏訪町
  • 指定 平成14年12月26日 町・歴史資料

 相楽総三(さがらそうぞう)(1839~1868)本名 小島将満(まさみち)、(四郎左衛門)といい、天保10年(1839)江戸赤坂に生まれた。父小島満(兵馬(ひょうま))は下総(しもうさ)(千葉県)の富裕の郷士で当時赤坂に住み、総三はその4男であった。

20歳のころには文武両道に秀で、特に兵学を得意とし、22歳のころは教えを請うもの200人に及んだといわれている。総三は早くから幕府の政(まつりごと)に疑いをもち、朝廷の衰微をなげいていた。23歳のとき父親から5000両をもらって家を出、同志を集め、東奔西走した。

 慶応4年(1868)正月、薩摩(さつま)の西郷吉之助の要請をうけ、討幕の先鋒(せんぽう)隊を編成して、その軍裁となり併せて一番隊隊長として、江戸以来の同志を中核とした一番隊を赤報隊と名付けた。総三は勝手知った信州にはいり、赤報隊を率い下諏訪に滞陣した。しかし、隊士を自称する者が金子(きんす)を強奪した噂(うわさ)や、朝命に背いて進軍の道を変えたこと、特に太(だ)政官(じょうかん)勅定書をもとに年貢半減を途中の村々に告示したことは、新政府にとってこれからの財政が動きがとれなくなることが明らかとなった。そのため赤報隊を犠牲にして、些細(ささい)のことをもとに、にせ官軍として抹殺(まっさつ)せざるをえなくなり、こうした冤罪(えんざい)により相楽ら幹部8名が刑に処せられた。しかし、相楽が高島藩士の石城東山(いしがきとうざん)と同志であったことから再三諏訪を訪れていたので、相楽の名は早くから諏訪人の間に知られていたこともあって、その死を惜しみ刑場を魁(さきがけ)塚(づか)として有志によって慰霊をおこなってきた。

 相楽の遺族やかっての同志により、雪冤(せつえん)の努力が実り、正五位の贈位があり名誉の回復がなされた。この間、集められた相楽の書簡等が、慰霊をおこなっている相楽会に寄せられていて、それが一括下諏訪町に寄贈された。なお、今回指定された資料は下記のようである。

指定の資料
自筆短歌・漢詩 3点、書簡類 10点、札書・綴書・絵図類 17点、遺族写真 2枚、魁塚図 1幅 以上 計 33点

相楽総三関係資料

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