万治の石仏

最終更新日: 2011年3月28日

  • 所在地 東山田
  • 所有者 下諏訪町
  • 指定 昭和57年 3月26日 町・彫刻

 ここを東山田の小字石仏といい、延宝3年(1673)の検地帳や享保(きょうほう)18年(1773)の『諏訪藩主手元絵図』には「えぼし石」と、下の原村の文化2年(1805)の「山の神講歳代記」には「みたらしの石仏」と記されている。

 地域の人々は「あみだ様」と敬愛の念を込めて、信仰継承してきたが、現在では「万治の石仏」が一般的な呼び名となっている。

言い伝えでは
  「高島藩主諏訪忠晴(ただはる)公が、万治2年(1659)春宮の石の大鳥居を寄進した。そのときこれを石材にしようとして石工が鑿(のみ)を入れたところ、血が流れ出たので神様の祟(たた)りと恐れて中止した。その夜石工の夢枕に、上原山(茅野市)に良い石材があるというお告げがあり、上原山の石を使い、急ぎ阿弥陀(あみだ)様を祀って、鳥居の完成を祈願した」という。現在も残っている鑿(のみ)の跡はその時のものと言われている。

石には
  「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」
また胸にはいくつかの謎(なぞ)の紋様が彫られている。向って右から
  太陽・雷・雲・磐座(いわくら)・月などで、これは大宇宙の総てを現し、右端には逆マン字が刻まれている。

 これは大日如来を教主とする密教の曼荼羅(まんだら)で、阿弥陀如来と大日如来を一体の石仏に共存させた「同体(どうたい)異仏 (いぶつ)」を信仰する密教集団の弾(たん)誓(せい)上人(1551~1613)を祖とする浄土宗の一派である。「南無阿弥陀仏」と唱えれば、現世でこの身このまま成仏できると説き、民衆に即身成仏による仏としての自覚を与えた。これは今までに例のない念仏思想で「仏頭授受」を伝えるものと言われている。
 石仏は浄土宗の弥陀(みだ)定印(じょういん)を結び、願主は浄土宗に帰依した人の法名で、兄弟かまたは師弟のつながりをもっていて、その二人がこの石仏を造立したのでないかと推定されている。

万治の石仏

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