浪人塚

最終更新日: 2011年3月28日

  • 所在地 砥沢口
  • 所有者 樋橋
  • 指定 昭和46年 3月5日 町・史跡

 元治元年(1864)に水戸(みと)藩の尊攘(そんじょう)派の戦死者を弔った塚である。この尊攘派は藩主徳川斉(なり)昭 (あき)の藩政改革を機に登場した軽輩武士を中核する急進派であった。この中心となったのは武田(たけだ)耕(こう)雲斎(うんさい)、藤田小四郎らで天狗(てんぐ)党と呼ばれ攘夷延期を不満として筑波(つくば)山で挙兵した。京都にのぼり、斉昭公の子一橋慶喜(よしのぶ)に嘆願して朝廷に訴え、攘夷を実行してもらう目的で大挙西上した。その一行は800人程で、京を目指して佐久内山峠から信州に入り、中山道を和田峠に向って来た。これに対して高島・松本両藩は幕命をうけて、これを樋橋で迎え撃ったのが11月20日のことであった。高島藩は千野孫九郎以下約400人、松本藩は家老稲村元(もと)良(よし) 以下350人が動員された。戦は午後2時ころから始まり日暮れまで続いた。浪士勢は干草(ひくそ)山(やま)の斜面を下ってくる者もおり、なかには陣羽織に白鉢巻の大男が馬で下ってきた。両藩の射手は大将と思いねらい撃ちして、ようやく討ち取ったが、大将ではなく修験者の不動院全海であった。水戸方の一隊はゲッタ沢を登り、集落の東側の山かげに迂回して撃ちおろし、更に他の一隊は深沢(ふかっさわ)に出て退路を絶ったために両藩は総崩れとなり、砥川に追い落とされ、川岸を逃げる者、川を渡って松本を目指したものなど、完全なる敗戦であった。浪士勢は町に下って来て下諏訪宿に泊ったが、人々の混乱は一通りではなく、家財道具を穴に埋めたり、夜は秋宮の奥の武居入りに逃げこんで寒さに震えて一晩を過ごした。天狗党翌21日に平出、松島と伊那路を天竜川に沿って下っていった。

 この戦争を「和田嶺(れい)合戦」「砥(と)沢(ざわ)口合戦」「樋橋合戦」などと呼び、この戦で命をおとしたものは浪士勢14~5人、松本勢4人、高島勢6人であった。

 明治2年(1869)高島藩は浪士のために戦死塚をつくり、翌年には水戸に照介して不動院全海以下6名の名を得て碑を建てて供養した。その後地元の人々を中心に年々の祭りをたやさず、25年祭、50年祭、70年祭、90年祭、100年祭など催され、今では水戸との交流がなされている。

浪人塚

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